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Jul 13

細かいタスクが山積みになると割と簡単にオーバーフローするのはどうにかならないのか、と思う。箇条書きにして簡単なもの/厄介なものから片付ける、というやり方以外にも方法はないものか…と書いているそばから解決策を見つけた。ただし実際に実行できるかは不明。


Jun 18

自分の制御下にない問題、特に他人の心情や行動が自分に向かって作用するような状況で自分がどう振舞うべきか、という問いに対して、具体的な解決法とは別にある決まった「情景」が浮かぶことがある。

自然と浮かんでくるその情景が得られた時はたいてい、よい解決策を思いつける。逆に、全く浮かんでこない時には冷静さを失っていて、思いついた解決策もあとから考えれば最善とは言えないものになる。

なので、この手の問題を考えるときは努めて例の「情景」を意識的に思い浮かべるよう心がけているが、肝心な時にはなかなかうまくいかないものだ。


いくつかの事象が訳のわからない繋がり方をしていると感じる。絡まった毛糸のように、引けば引くほどややこしくなるような。実のところ、自分の制御下から外れると言う意味では、あまり愉快なものではない。


Jun 15

半月ほど気分をちゃんと記録しなかったわけだけども、この間に上がったり下がったり色々とあった。素晴らしい経験もしたし、その逆もあった。よい意味での変化を感じるときもあれば、違和感を覚えるときもあった。本当に2週間色々あった。


May 27

気分を共有すると言うのは、情報を共有するのと同じくらい重要だと個人的には思っている。つまり具体的な見通しを明確にするとともに、それについてどういうつもりでいるかをオープンにされてはじめて、何かが飲み込めた気になる。


May 19

可能と不可能の間には「可能だがやりたくない」と「不可能だがどうにかしたい」の二つの隠されたステートが存在する、と書いてみたくなった。ただ言葉の上で考えて書いてみただけで、実際に何かを意図している訳ではない。逆に言えば、こう明言しない文章には、何かしらの意図なり経験なりが存在している。だからどうというわけでもないが。


何かを知る過程は面白いが、問題はそれが飽和したときにある。つまり、多くのことが想定の範囲内になってしまって新鮮味がなくなったときにこそ、対象への執着具合が物を言う。対象は何でも良い。
行動のルーチン化はこの飽和を乗り切る上で有効なストラテジーのひとつであるように思う。知る事をルーチンにし、繰り返し行うものだと体に覚えこませてしまえば、執着だけに頼らずに知る過程を続けられる可能性がある。


May 17

自分のものの考え方では、困難=進むべき道、戦うべき方向性であって、扉は殴る蹴るの末に開くものであるのだけども、必ずしもみんながみんな、そうではない。

他の人の話を聞き、自分は概して運の良い人間だと思っているが、それは上記の殴る蹴るの後に得られた結果であるという見方もできると感じた。本当に運の良い人間は歩いているだけでイベントが起こるようだ。しかし自分の人生でそういうことが起こるとはちょっと考えられない。


何かを語るときに、必要以上に重くする必要はないが、それと同時に必要以上に軽くする必要はない。他人にある行動を進める際に、それに伴う困難を存在しないように語るのは、事実の隠蔽であり、個人的には許されない事のように感じる。結局のところ、それは「出来る奴には簡単なんだろう」という感想しか生まない。


と同時に、この世の中には『困難である』と告げた方が俄然やる気の生まれる人間もいる事を改めて再確認する。つまりは自分のことなのだけども。


May 16

自分の思考の方向性を再確認する。不可能だと言われれば可能である事を示そうとし、可能だと言われれば不可能である事を示そうとする。前者を実行する格好いい話は巷に死ぬほどあるが、後者について自分の身を犠牲にしても証明しようとする話はあまりないような気がする。


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